雨音のする画廊

小さなラジオ



先日の地震から一週間が経った。


私の住む京都市の西側は震度5強、あの阪神大震災のときとほぼ同程度の揺れにおそわれたけれど、
身近の範囲では、電車が止まった以外に大きな被害や混乱はなかったようだった。

しかしニュースにもっと詳細な情報が上がりはじめると、
大阪府北部を中心にした様々な被害の大きさが分かりだし、あらためて恐怖を感じた。


3.11以降も日本各地で震災は起こってきたのだが、
やはり本当の身近で起こるまでは、誰もがどこか油断してしまうのだと思う。


数年前に購入した携帯用のラジオ、
しまい込んでいたわけではないが、手に取ってみると少し埃がついていた。




DSCN2214.jpg
▲オレンジ色が、昔の家電っぽくていいと思ったのだ



…充電池の残量がなく、手回しでしか聴くことができなくなっている。

すぐに電池を充電器にセットし、
非常用の乾電池も買ってきておいた。



私はもともとテレビよりラジオが好きなのだけれど、
最近は便利なインターネットで聴くことが多くなっていた。

しかし、災害時にネットが使えるとは限らない。


小さくともSONYクオリティなところがお気に入りで、
一時は毎日使っていたこのラジオ、
油断する自分への警告をこめて、
この仕事部屋にいるときにはすぐに手に取って使えるようにしておこうと思った。




また大震災が起こったら、自分の命があるとは限らない。
それは仕方がないとしても、
こんな自分を救助するために、誰かに命を懸けさせてしまうかもしれないのだ。



そう思うと、
最低限の備えは必ずしておかなければならないな、
…と認識を新たにした筆者です。





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  1. 2018/06/25(月) 22:27:05|
  2. 未分類

画材という名の誘惑



忙しさにかまけて更新をさぼっている間に季節は移り、京都も梅雨入りです。




気づくと田んぼに水が張られ、田植えが済んでいる。


街中には少なくなった田んぼも、桂川沿いにはしっかり残っていて、
今の時期に涼しい夜風を受けながら自転車で走ったりすると、蛙の声がいちめんに響きわたっているのだ。

まだ稲の苗も小さいので、田んぼの水面には街の明かりがくっきりと映り込み、
蒸し暑い昼間とは別世界に思える。


これは筆者の初夏の楽しみのひとつである。


この蛙の大合唱を「騒音」としてとらえる向きがあるのは残念だ(´・_・`)
感じ方はひとそれぞれだから仕方ないけれど。





初夏の楽しみといえば、皆さまとっくにお忘れだろうが、
筆者の裏の顔は、泣く子も黙る秘密結社「三つ葉会」の会長なのである。

注)会員は一人しかいない


このごろは、太い束が88円で売られていたりして、見かけると必ず買ってしまう。
ハウス物にしてもやはり旬はあるだろう。

沢山あるからとおひたしにするのもいいし、
今の時期の柔らかさを生かしてサラダでいただくのもいい。
(旬を過ぎても三つ葉は売ってるが、サラダはやめたほうがいい、茎が固くて適さない)


まな板に載せてぶっつりと束を切ったときに、私は必ず切り口の香りをかいでうっとりしてしまう。
↑しかし危ない画ではありますね、包丁片手にリラックス…(゚∀゚)


普段お肉はほとんど食べないが、
今夜は頂き物の手作りベーコンがあったので、カリカリに焼いて黒胡椒をひき、
洗って刻んだだけの三つ葉にのせて、美味しく頂きました~♪


しかし、
「泣く子も黙る」なんて書いたけれど、
実際は泣いてない子が泣き出すだろう、三つ葉の風味。

かく言う筆者も、こどものころは香味野菜全般が苦手だった。
茶碗蒸しや太巻きに入ってる彩りの三つ葉でさえ嫌なのに、
三つ葉が主成分のおひたし、サラダなんて目の前に置かれたらどうなってたか(笑)


だが、味覚は変わるものである。

同じようなこども舌だったはずの弟(二つ違い)は、
なにかのアンケートの「好きな食べ物」の欄に「わさび」と書いていた。


…いやあ、大人になるっていいですねえ、
しかしこういうひとたちは大抵酒ずきなので、気をつけましょうね~(´∀`;)






ひさしぶりの更新のせいか、
らちもない雑談にスペースを費やしてしまったが、タイトルの話はここから。
(でも雑談であることには変わりありません)




先日、行きつけの画材店がセールなので買い物に行った。


いつもはひとりで行くのだが今回は同僚が一緒だ。

彼は絵描きではないが手先がとても器用で、他業種の経験があり工具などにも詳しい。
しかもなんというか「勘のいいひと」で、
それはつまり観察力が優れているということではないか、と私は思っている。

絵は描くが基本的に不器用でぼんやりしている筆者とは、要するに正反対のタイプなのである。



この同僚が最近話してくれたことがひどく印象的で、頭から離れないのだ。


曰く、「新しく何かを考えて(=デザインして)、見せる、というのはものすごく気恥ずかしい」



この感覚が全く理解できないというひとは、生まれついての表現の鬼…かなにかであろう。
(それはそれで羨ましいことだが)

同じ業界に長くいてそうとう図太くなっている筆者にも、実感として思い当たる。


工芸関係の家に生まれ、美術の学校を出て、
自分の描いたもの・つくったものを、ひとにあれこれ言われるのには慣れてしまった。

そのうえで、職業として社長だの得意先だのにアイデアを提示し、
してはダメ出しをくらっていると、
もうそれは日常茶飯事といっていいくらいに些細なことになる。



しかし、
自分の専門外でなにかを考えて人前に出さなければならないときは、やっぱりすごく「気恥ずかしい」のだ。

(私の場合は、商品のネーミング、アピールポイントを文章に起こすこと…などがそうである)




なにがそんなに恥ずかしいのか。

その根源にあるのは、上手下手の問題にもまして、
「自分の美意識をさらけ出して、他人の審判にかける」ことではないだろうか。


「このひと、これがかっこいいと思ってはるんや」というのを、明るみにひきずり出すのだ。


↑京都弁で言うからよけい圧が増すわけだが(笑)





…さて、
画材店はセールでいつもよりは混んでいた。


「画面にツヤを出したいならこれじゃないか」
「作りにくい色はとにかく買っといたほうがいい」
などと、訊かれるままに、わかった様なアドバイスをする自分にちょっと驚いた。

おもてにはテントが張られていて、
そこは、普段は試せない筆を実際に使ってみることのできるスペースだった。
時間に余裕がなくて、ちょっとだけのつもりが、試し放題となるとテンションが上がる。


そして、
画材店はほぼ初めての同僚が、
少々ためらいつつも、私一人では眼に入らなかったような色や素材を選びだすのが非常に面白かった。




そう、画材は誘惑するのだ。



構想を練ってから行くかどうかはそんなに重要ではない。

マテリアルが豊富に取り揃えてあれば、
美意識はいつしか拡張されて、
あんなのが・こんなのが出来そうだ、いや造り出したい、という状態になる。



…そのイメージを出力するのがまた大変(というか、別の問題)なのだが、
画材店には、そういう欲望をかきたてる魅力があるのである。










DSCN2201 (2)
▲これは経費でなく、個人的なお会計



…誘惑される結果、必ず支払いを(会社の経費と自分用とに)分けてもらうことになる。



ラフスケッチなどはコピー用紙にシャーペンでいい、ミスプリントの裏でもいい、と筆者も思っているが、
こと私的な用途についてはやはり描き味にこだわってしまう(苦笑)


クロッキー帳で好きなのは、上の画像、マルマンの「Antique Laid」

古典的な紙色、そして「簾の目」がしっかり入っているのに、
消しゴムをかけても紙肌が荒れにくい。
他のより少し高いけれど、これでないと何か物足りない。


下側に写っている鉛筆はホルベインのもので、マットな描き味が気に入っていたのだが、
もう生産されていないとこの日に聞いて、
試し描きのすえ別メーカーの鉛筆を買った(コンテ・ア・パリ)。




DSCN2202.jpg
▲上のは必需品だが


誘惑とかなんとかいう以前に、リキテックスのアクリル・ソフトタイプは欠かせない。

それはさておいて、
下側に写っているのはサクラクレパス・スペシャリストというオイルパステルである。

サクラクレパスというとあの小学校で使った、円い太巻きを思い出すひとが多いと思うが、
大人用のそれは色数も豊富で、軟らかすぎないテクスチャもほどよく、
なにより角型になっているため細かい描きこみがしやすい。


(「オイルパステル」で検索すると、
やはり世界的に有名なセヌリエなどが筆頭に挙がってくるのだが、
好みや作品のタイプによって相性は左右されるので、やはり画材店に赴いて実物を見るのが良いだろう。
筆者には、セヌリエはどうにも軟らかすぎた)





あらゆる「誘惑」はそのほとんどが、高い代償を要求するものだけれど、
画材なら、お試しもばら売りもある。

初めて自分で試して買った筆を持ち帰った同僚は、やっぱり描きやすかったと話してくれた。



魅力的な画材を選んで使うのはやっぱり本当に楽しい。


「気恥ずかしさ」がなかなか払拭できないのはよくわかるが、
この面白味を知ってほしい、
そして仕事に生かしていっていただきたい(´∀`)ノ
…と思った次第です。











  1. 2018/06/09(土) 08:26:22|
  2. 未分類

鼻歌の効用



皆さま、連休はいかがでしたか?

私はカレンダー通りには休めませんでしたが、
例年のとおり高槻ジャズストリートを楽しんできました。

その模様はまた近々、ゆっくりと。





大雨で始まった連休明けの週、
だるいには違いないが、やはり仕事してるのが本来の状態という感じがする。


五月病、なんていうのはやっぱり若者にしか許されない、
…というか、若いうちしかならない病気なのかもしれない(´∀`;)




とはいえ、いつもの生活リズムに戻ってみると、
勤め人にイライラはつきもの。



ひとに聞かれないような状況なら、鼻歌をうたって気持ちを落ち着かせることもある。
(むろん、単にいい気分なので鼻歌が出ることもある)




鼻歌…

これは意外に深層心理に触れているかもしれないので書くのがなんだか怖いのだが、
「いつも同じ曲が出てきてしまう」ことってありませんか?




筆者の場合、鼻歌で自動的に出てくる曲は二つある。

ひとつはよく知られた古いイギリスの民謡「グリーン・スリーブス」
もうひとつは、これも有名なクラシックの名曲「ヴォカリーズ」(ラフマニノフ作曲)だ。



ふだんは、ジャズやボサノヴァなど違うジャンルの曲を好んで聴いてるのに、
J-POPで好きな曲もいろいろあるのに、
なんでこのふたつが自動的に出てくるのだろうか?




もうすこし考えてみると、
グリーン・スリーブスはほんとうにリラックスしてるとき
ヴォカリーズは、「どちらかというと単調な作業だが、集中したい」というときに出てくるようである。


問題はラフマニノフのヴォカリーズのほうで、
これはその名のとおり歌詞のない、純粋に声楽のための曲であり、
なおかつ相当な難曲なのだ。


音楽の素養なきド素人が鼻歌で歌いきれるものではない。


…ではないが、
「あれ?こっからどうやったっけ?」と探りながらハミングするのが、
集中力を高めるのに役立っている、ような気がする。


(なんといってもこの曲のラスト部分、
ピアノ伴奏が主旋律を先導するので、無伴奏鼻歌では非常に歌いにくい)



歌詞がないからこそ、集中してメロディを思い出そうとするのかもしれない。
歌詞を覚えていれば、多少音を外していても気持ちよく歌ってしまいますものね。



…たかが鼻歌、

ひとに聴かせるものでなし、
自分のためだけに、意識して活用してみるのもいいかもしれません。








IMG_0159.jpg
▲上:「鼻歌うるせえ」 下:「寝られへんがな」



…君らいつでも好きな時に寝とるやろ!






…すみません、
le club jazzのマスター加藤さんちの猫たちに無理くり出演していただきました(笑)

個人的には黒猫のデンベくんの写りかたがツボです(^ω^ )






連休は当分ないけれど、
自分のペースで仕事をこなしていきましょう。

各自、得意の鼻歌も味方につけて。


















  1. 2018/05/10(木) 23:03:25|
  2. 未分類

「素描」の魅力



GW真っ最中なわけですが、
今年はなんだか、季節が順当に進まないまま迎えた感じですね。


季節外れの暑さが続くかと思えば、雨の後一転してひんやりと…

皆さま、体調はいかがですか?



しかしそれ以上に、ここ半月ほど世間を騒がせた例のニュースには、なんだかぐったりと疲れてしまった。

ひとつ言いたい。


「セクハラにあたるかどうか」ってのは、やったほうが決めるんじゃないんですよ。

された側が不快に思い、
今後またそういう扱いを受けるのではないかとストレスを感じるのなら、それはセクハラだ。

そんなの分かんないよ、という御仁には、
「もし自分の身内がそういう目に遭ったらどう思うか」と考えることをお勧めする。

…というかそれしかないのだろう。
分からないのなら、想像してみるしかない。


人間のやることはいつでも不完全だが、それが思いやりというものだと思う。






さて近頃、といっても2月頃からずっとだが、
忙しさと春特有の体調不良(喘息持ちにはつらい季節だ)とにかまけて、
自分の描きたいものを描く時間を取れていない。

まとまった空き時間は、
溜まった疲れで起きられなかったり、
逆にそわそわして大掃除を始めたりして、消費してしまうのだ。



で、やっと「描きたいものを描く」半日ができたとして、
ここで必ずと言っていいほどに発生する事案がある。


なんか最初にざっくり描いたのが、いちばんいいんちゃうの、という問題である。

仕事だと当然、ある目的に適うように描くわけで、
ラフはラフとして、そこから整え、練っていかなければならない。


だが、
「単に自分の描きたいもの」の場合、
ラフスケッチがいちばんいい感じならば、そこからどうもしたくなくなってしまう、ということがよくあるのだ。


これがいわゆる初期衝動のなせるわざなのだろうか。



思えば、誰か名高い作家の展覧会に行っても、その図録だけ見るにしても、
そこにある「素描」あるいは「習作」に惹きつけられることが多かった。

鉛筆やチョーク、インクで描かれたそれらのスケッチは、
時に、より練られて完成された「作品」よりも生き生きとした魅力を放っているように思えた。


素早いタッチに見とれていると、
描いているときの息遣い、紙の擦れる音までもが聴こえるような気がするのだ。



素描の魅力。



…でもそういうのは「すごい人」の絵だけだって~( ^ω^ ;)



それが分かっていながら私は、
人目を避けられない、描きなおしもできない状況でスケッチをする、ということを敢えてする。
修行のつもりもあるけれど、
ジャズのひとたちが(描かずにいられないくらい)格好いいのだから、仕方がないのである。



どんなに下手でも、そこには、
あとで写真をみてじっくり描いたのとは違う、
スケッチならではの「現場の空気」がある(はず)なのだ。





Attachment-1 (1)
▲今年2月、京都le club jazzで。テーブルクロスとして敷かれたクラフト紙に、オイルパステル、色鉛筆



このときモデルになっていただいたのは、左から、角田さん(p)、萬さん(b)、光田さん(ds)の素敵なトリオ。



後から見て、「ここ直したい!モデルの皆さんすいません!」となるのは毎度のことだが、
直せないし、直さない。



描き捨てよ旅の恥、

一発勝負のジャズ・スケッチは機会がある限り続けるつもりである。




そこにわずかでも「素描の魅力」があるかどうかは、筆者自身にはわからない。

でも、懲りずに今後もアップしていくつもりですので、
「まだやっとんのか、しょうがないなあ」という感じで見ていただければ幸いです。






…ところで、
今書いたようなことが、
音楽や写真の世界にもあるのだろうか。


かなり気になるので、折を見て友人知人に訊いてみたいと思います( ^ω^ )














  1. 2018/05/02(水) 23:30:59|

ターナー展と「時代の気分」



またもやご無沙汰しております。猫足です。

しかし、「猫足」ってなんなんですかね、もうちょっと名前らしいハンドル付ければいいのに。

その昔、中臣鎌足っていうかたがいらっしゃいましたが、
ここの筆者は「ねこたり」ではありませんよ。「ねこあし」です、念のため。



この春はいつものようには桜を楽しめなかった。

「いつものように」というのは、
酒好きのくせに、
花見と称する単なる野外の宴席には決してくみせず(あのブルーシートの色がまず許せない)、
ただもう桜、
それも曇りや雨の日の桜を好んで、食い入るように見つめる。

…という、筆者が恒例とする、いささか変態的な(言っちゃった)楽しみ方のことをいう。



なんだか急に暑いくらいになったなと思うと、いきなり満開。
初夏のような日射しに顔をしかめている間に散り始め、
早いところはもう葉桜になろうというここ数日になって、肌寒さが戻ってきた。


ここ数年で最悪の経過だとは思うが、
とりあえず桜の木の皆さんには、今年もお疲れさまでしたと言いたい。(←謎の視点)





さて、
今日は京都文化博物館の特別展「ターナー 風景の詩」を観に行ってきた。



Turner_top-680x272.jpg
▲京都文化博物館公式サイトから引用



ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)、イギリス最大の風景画家。
早くから日本でもよく知られていて、夏目漱石の「坊っちゃん」にもその名が登場する。
(赤シャツと野だいこが「ターナーの松」を吹聴するくだり)



展示は時系列ではなく、「風景画家」という大きすぎるくくり方を、4つのジャンルに分けて見せるものだった。
中でも「海景」のパートでは、写真も映像もない時代のその観察力、描写力に息をのむ思いがした。

また、彼の挿絵と、それをもとにして作られた精密な版画の展示の量がものすごく、
アートが大衆に求められるようになった時代の勢いというものをまざまざと感じることができた。


ただ、正直言うと、
ターナーの後期の作品、
あの細かい描写は一切なくなって、空と光と水蒸気だけがあるかのような茫洋とした絵、
…そういうのはごく少なかった。


私はそれが観たかったのだ(まあ予想はしていたけれど、予想以上に少なかった)。




そうは言っても先に書いたとおり別の意味でいろいろと面白かったので、がっかりはしていない。


出版物の挿絵になる版画の「原画」として製作された、ごく精細な水彩の小品を観ながら、
私はしきりにある小説の内容を思い出していた。


今も愛される英国文学の名作、「ジェイン・エア」である。

(ターナーを観ながら、同時代の作ではないかと感じたのだが、
帰って調べたら1847年の刊行だったので、ばっちり被っていることになる)



ここで小説のあらすじを書く余裕はないが、
ジェイン・エアは孤児院で教育を受け、やがて家庭教師として独立する。

この時代、イギリスの上流家庭の女子は、
音楽やフランス語や刺繍などとともに「絵を描く」ことをも、教養の一部として習得しなければならなかったようだ。

しかしジェインは本当に絵が好きで、
生徒に教えるためだけでなく、水彩画を自分の唯一の「趣味」として楽しむ場面が何度も出てくる。



しかしですよ、
現代の読者からすると、「なんでそんなもんを描くんだ」と言いたくなるような絵があるのだ。

今、手元に原典がないので正確な引用はできないが、
ジェインが描いた空想画の一枚は、
「荒れ狂う海で難破しつつある船、沈んでいく美しい女性の腕。その腕輪を海鳥がくわえている」というようなものだった、と思う。


ファンタジーが暗いのである。




でも、ターナーが手がけた挿絵をたくさん観ていくと、
「時代の気分」というものがなんとなくだが感じられてくる。


おおざっぱに過ぎるだろうけれど、
それは今よりずっと娯楽が少なく、
しかし産業の近代化とともに文化が大衆に浸透しはじめた時代。

歴史にもとづく荘重な詩が愛読され、異国への憧れ(特にイタリア)が強く、

…なおかつ今よりずっと死が身近にあった時代である。



時期が完全に被っていること、
またターナーの知名度からして、作者のシャーロット・ブロンテが彼の絵に全く接していないとは考えにくい。
少なからず影響は受けていたのではないだろうか。




個人がスマホでさくっと撮って即アップ、
その画像が話題になればすぐに世界を駆け巡る、といった現今の状況からみると、
「原画を描いて、版を彫らせて(ここで作者のダメ出しあり)、刷って」…というメディアのあり方ははるか遠くに感じられる。


でも「時代の気分」「流行のイメージ」を醸し出すという、
人間の不思議な習性はあんまり変わってないんだな。

…と、思いました。








この展示は今月15日までです。
気になってたかた、お急ぎください。


あと、「ジェイン・エア」はごく最近に至るまで何度も新訳が出され、何度も映画化された名作です。
面白いのでまだの方、読んでみてくださいね。












  1. 2018/04/08(日) 23:38:18|
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プロフィール

猫足

Author:猫足
京都生まれ、本業は工芸デザイン。
なのに趣味も絵。われながら不健康だと思います。


〔筆者近況〕

先日、帰りが遅くなり急いで歩いていたら、
「あたらしい餅」
と書かれたのぼりが立っていた。

そりゃ古いよりはいいだろうけどさ、
…とよく見ると、
「みたらし小餅」だった。

こんな調子でいろいろ誤解してないか心配である。

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